善意で敷き詰められている

脈打つ大地の檜皮色/君の好きなグリーンでもっとハイになって

2024年、夏の終わりのこと(ここは光の先)

 

これはさすがにもう秋といっていいんじゃないか、という気温になった。最後の夏日に今年もなったな? まだ? 最後の花火は自分で決められるけれど、最後の夏日は自分では決められない。夏日、そろそろ定義を見直したいところですね。でも今年はあまりに暑くて、「10月」という字面のダメージが小さいのは救いだと思う。そのうち、寒さと11月が同時に来て心身ともに詰むことは目に見えているのだけれど。

 

今年夏があまりに長かったのは、一説にはMeseMoa.の日フリーライブが延期になったことが原因だと言われている(n=1)。「これをやらないと夏が始まらない」「これをやらないと夏が終わらない」、愛すべきリーダーは確か両方言っていた。どっちやねんと思わなくもなかったけど、たぶん本当に両方なんだとも思う。

「絶対に新しいものが見られる」ことは、経験とか、推しのキャスからわかっていた。それがたぶん、「新しい」だけじゃないことも。

この日に何が見たいかと聞かれたとき、「You're the love」と答えた。ゆあざは、単推しを拗らせた私が、去年の8/16に「これはもう見られないかもしれない」と思った曲だった。「もうやってくれないのではないか」ではなく「さすがの自分もここで『しーろーふーく!』以外のことを言えないのではないか」の意味で。

そう思ってから幾星霜、いやそんなに長くもないな、ともかくぎぶごを終えた私はころっと「『きーまーぷーり!』って言いたい!」って強く思うオタクになっていたし、はたしてMeseMoa.が選んだのは、そこを全員で歌う、だった。納得しかない。迷いなく「めーせーもーあ!」ってコールできた。超気持ちよかった!

 

 

「真逆の糸」は、正直やると思っていなくて、だから殺生石終わりのポーズを見たとき、本当に素直な気持ちで叫ぶことができた。このイントロ知ってる。この配置知らない。びっっくりした。本当にノーマークだった。

編成を変えるとき、基本的には5人の既存の歌割に4人分の歌割を乗せるのが定石だと思うのだけど、真逆については、全構成を作り直していたのもとても印象的だった。そうまでしてやってくれたこと。そのセンターが推しだったこと。

「真逆の糸」という曲について語り始めるとおそらく論文になってしまい、それをやるとリハビリで書き始めたはずのこのブログが未完に終わってしまうのでほどほどに書くけれど、あんな「二番煎じ」ありきの曲のセンターに「野崎弁当」として立ってくれたことがとても嬉しかった。二番くんの真逆はなんというか「二番煎じ」としか言いようがなくて、ずっと真ん中にいるのに流されて見える振り付けも、最後その意味もわかっていないようにすら見える眼差しで糸を掴んでしまうところも、空虚で透明で、それでなお全然弱々しく見えない存在感も、彼にしかできないと今でも思う。

真逆の糸、何が真逆かって「行き先」だと私は思っていて、だから二番くんが掴んだ糸は、「切れない」ほうが好み。選ばれる、愛されるという修羅の道を進んでしまうほうが。

一方で野崎さんの真逆は、それこそ「真逆」に見えた。ギラギラした意志の見える眼差しとか人間臭い態度とか、外野の声を振り払うみたいに糸を掴む仕草とか。タロットカードの逆位置みたい、と思う。なお私のタロットカード知識は金田一少年の『タロット山荘殺人事件』がすべてなのでこれ以上深い話は出てきません。

だから野崎さんの糸は、「切れた」という解釈のが好み。糸を掴んだ手を見つめて、最後前に伸ばした手をそっと下ろして、望まない結果を背負ってなお生き続けるほうが。

 

多分でも、同じ真逆はもう見られないと思うし、次に見た真逆はここまで書いたものと全然違うのかもしれない。それはそれでとても楽しみですほんとうに。だからどうかまた見られますように。余韻に浸りたい気持ちもあるけれど、なるはやで全然大丈夫です。

 

 

真逆も烏合もイイコノママデも、ものすごく完成度が高くて、「MeseMoa.」として出した曲をどんどんできるようになってくれることに勝手に気概めいたものを感じて、そういうものをすごく買ってしまう。こんな言葉遊び誰が気づくんだという感じですが、最近たぶん私「推しのいるグループ」って書いてないと思う。まごうことなき「推しグループ」。

 

 

パシフィコ公演の発表があったとき、当たり前のように前回のパシフィコ横浜公演を思い出した。あのとき、白服さんが「武道館への光」の話をしたあとにMC順が回ってきたノックソさんが、「白服さんのいう光まで……光の先まで」って言い直したのがすごく好きで、ずっと覚えている。とか言って正確じゃなかったらごめんなさい。

あのころ、沼に落ちたばかりの私は楽しくて幸せで、幸せな頭の片隅で、この日々がどう終わるのかを考えていた。私らしすぎる。あまりに愛が大きすぎると失うことを思ってしまいますね。でもさすがに、その問いのまんま持ち続けることはできずに、「光の先に何があってほしいか」という問いに変えてしばらく反芻していた。そうこうしていたらコロナ禍があって、いろんな意味でその問いは適切ではなくなったけれど。

気づくのが遅すぎたくらい、今ここは間違いなく「光の先」なのだなと思う。こんな未来想像してなかった。でも、それが今ここでとても嬉しいです。

 

だから「New Journey」、のっくんに「また始めよう」の歌割を振ってくれるの解釈一致でしかない。「今MeseMoa.の話をしようとすると7割ノックソの話になる」と口走ったのは確か3月のことでしたが、その1%くらいを無事書けました。よかった。続けます。

「New Journey」、友人と話したときに、「次のツアーのリード曲にしてはリリースが早かった」という話が出たのですが、「ぎぶごを経た勢いでそのまま世に出した」と無邪気に思ってしまっている。「ヨーソロー!」で漕ぎ出した後、「上陸した」と思ってもらえたこと。地に足つけて歩いていく曲なのも大好き。

「旅は命のパレード」、すごいフレーズだと思う。まず「旅」がアイドル人生の比喩なわけじゃないですか。それを指して「命の」「パレード」だと、アイドルは生き様を見せて歩くものだと、そういう比喩だと思っています。そんなの、もちろん買ってしまうよ。

 

 

 

秋風に吹かれてセンチメンタルモードになるとすぐに自虐に走ってしまう癖があり、心の中の私が言語化能力の低下にまず落ち込み始めたので、完璧を目指すよりまず終わらせろの精神でここまで書いてきた。ここ半年くらい、いい意味でも悪い意味でも、言葉を蔑ろにしてきたツケだと思う。また書いた端から後悔して書き直すかもしれないけれど、ひとまず記録できてよかった。

感情が大きすぎて、ぎぶごのブログを諦めてしまったのもよくなかった。でもあのとき作った短歌はそれなりに気に入っているので自己満足で再掲します。

 

きっと今同じ気持ちと手を伸ばすgivemeFIVE愛を交わして

金色の魔法の名残飲み干せば題名のない朝がまたくる

ここに来るまでの苦労のことなんか知らなくていい(少しだけ嘘)

大丈夫涙はダイヤに変わるからおいで悲しみ抱えたままで

閻魔様が声をかけそこねるくらい僕らへらへら笑ってようね

 

可笑しくなるくらい、ずっと同じ気持ち。

僕らへらへら笑ってようね。